篠山の歴史を知る「篠山町75年史」ー「交通・通信(通信)」

篠山郵便局

沿革
明治5年7月1日
創設、四等郵便役所と称し、呉服町三浦直吉氏が所長を拝命し自宅を局に充て開所した。
 
明治11年1月2日
内国郵便為替事務開始
 
明治11年9月25日
貯金事務開始
 
明治19年6月1日
郵便役所を三等郵便局と改称
 
明治25年1月1日
篠山郵便電信局と改称し、呉服町21番地より同町23番地に移転
 
明治25年1月1日
電信事務開始
 
明治25年7月10日
外国郵便為替事務開始
 
明治26年7月1日
小包事務開始
 
明治35年12月
郵便局を現在の地(元警察署跡)に移転
 
明治41年8月11日
電話通話事務開始
 
明治41年10月1日
振替貯金事務開始
 
明治42年3月31日
電話交換事務開始
 
明治42年6月1日
兵営通に兵営前郵便局設置
 
明治43年3月15日
年金恩給支払事務開始
 
明治44年9月4日
集金郵便事務開始
 
明治45年5月13日
債券元利金支払事務開始
 
大正4年1月27日
各庁歳出入受払事務開始
 
大正5年10月1日
簡易保険事務開始
 
大正12年4月1日
郵便私書箱設置使用事務開始
 
大正15年10月1日
郵便年金事務開始
 
昭和10年3月31日
庁舎新築
 
昭和15年6月16日
兵営前郵便局を郡家郵便局と改称
 
昭和16年3月16日
河原町に篠山河原郵便局設置
 
昭和17年10月1日
郡家郵便局移転乾新町郵便局と改称
 
昭和18年9月1日
特定郵便局より普通郵便局に昇格
 
昭和24年6月1日
2省分離により郵便局と電報電話局を分離
 
昭和25年10月1日
指定局制度開始多紀、氷上特定局担当
 

日本電信電話公社篠山電報電話局

沿革
昭和24年6月 旧逓信省が電気通信省と郵政省とに分離するまでの沿革は次の通り
明治25年1月1日 電信事務開始 
明治41年8月11日 電話通話事務開始
明治42年3月31日 電話交換事務開始
昭和2年10月1日 普通電話となる
昭和10年3月31日 現在の局舎(元、篠山銀行)へ移転
昭和24年6月 電気通信省発足
昭和27年8月 日本電信電話公社に移行、電気通信事務は篠山郵便局より独立した。
 
市内電話交換機増設
市内電話交換機は電話交換開始当時(明治42年3月)特殊100回線単式交換機僅か1台に過ぎなかったが、逐年電話加入者が増加したので、昭和14年6月までに同単式交換機5台に増設されていた。更に加入者が激増したので、同年7月には単式交換台を小型直列複式交換機4台に取換えられ、其の後又6台に増設された。然しもはや収容余力も少くなり、現在では余裕数十名を余すのみとなったので、近く共電式戓は自動交換方式との設備替の必要に迫られている。
 
市外交換機増設
昭和10年2月現在では小市街交換機7台増設されていたが、昭和10年3月に現在使用している大市外交換機3台(9席)に取換えられ、近く又1台(3席)増設を予定されている。
 
【市内及市外台増設状況】
明治42年3月31日 市内特100 1台新設 小市外 1台新設
大正9年12月25日 市内特100 1台増設
大正11年9月1日 小市外 1台増設
大正14年3月30日 小市外 1台増設
大正14年12月30日 特100 1台増設
大正15年3月31日 小市外 1台増設
昭和2年12月27日 小市外 1台増設
昭和4年1月17日 特100 1台増設
昭和4年3月14日 小市外 1台増設
昭和4年9月15日 特100 1台増設 小市外 1台増設
昭和10年3月24日 大市外 3台と取換
昭和14年7月6日 市内小型直列複式交換機 4台と取換
昭和23年7月2日 市内小型直列複式交換機 1台増設
昭和26年12月29日 市内小型直列複式交換機 2台増設
 
委託局(特定郵便局中電話交換を取扱う局)
昭和24年6月、2省分離に際し、当篠山町(現本局所在地)に電気通信管理所が設置せられ、氷上郡及び多紀郡内委託局23局の電気通信設備としての電信電話線路及局内機械等の設備並に維持を担当していたが、昭和27年8月、公社発足により、更に機構改正(昭和27年11月)が行われ、現在の機構となる。
同管理所廃止と共に、氷上郡には柏原町に電気通信施設区が設置せられて、篠山電報電話局は専ら多紀郡内委託局9局(日置、味間、古市、今田、福住、宮田、大山、福井及び草山)の電信電話線路、機械の管理に専念する事になった。
 

ラジオ

「通信上、画期的革新をもたらし、最も重要な地位を占めるラジオ時代来る」と呼びかけ、大正14年5月4日、篠山新聞社(当時、東新町榊原写真館前)に当時としては優秀な聴取装置を設け「放送開始次第聴取が出来ます」と宣伝して待機、大阪三越屋上からの仮放送をキャッチした。これが篠山における放送受信のはじめである。
以来受信機は年と共に発達し、昭和2年頃より聴取者の数も急激に増加し、普及率も著しく増大、大衆化されて今日では殆んどの家庭に設備され、日常生活上重要な役割を果たしている。
 

テレビジョン

山間都市篠山に於いてはテレビジョンの受像は学者間で不可能とされていたのであるが、昭和28年5月30日午後3時40分、篠山町王地山一力山荘に於て、三田町大前敦春、大前義啓兄弟が産業経済新聞社篠山通信部の後援のもとに、テレビ受像試験を行ったが頗る好成績で受像可能なことを確認した。
其の後篠山町においてテレビ受像設備を持つものが出来て翌昭和29年1月には町内に9軒設備された。
 

このページの記事は「2004年トライやる・ウィーク」で篠山市立篠山中学校の2年生3名が作成したものです。

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